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幸手市の歴史

▼時代別 ▼解説
<縄文時代>
 幸手市の地形は大部分が低地で、縄文時代(約1万2000年〜2200年前)は海の底でした。しかし、東端の槙野地だけは下総台地の上に立地していて、当時の人々が暮らした跡が確認されています。

 今から約8千年〜6千年前の縄文時代、すでに幸手には人が住み、狩猟・採集生活を送っていたことが、槙野地の遺跡の出土品などからわかっています。
<弥生時代〜古墳時代>
 弥生時代(約2200年〜1800年前)には、海岸線は現在とほぼ同じ位置に なり、この頃から古墳時代(約1800年〜1300年前)にかけての幸手市の景 観は湿地の中に自然堤防(川が運んだ土砂が堆積した川沿いの高い部分)が散在していたものと推測されます。

 大和朝廷時代になると幸手を含めた関東に もその影響が及び、日本武尊が東征に際して「薩手が島」に上陸、田宮の雷電神社に農業神を祭ったという言い伝えが残っています。
<奈良時代〜平安時代>
 奈良・平安時代(約1300年〜800年前)には生活技術も向上し、農業の形や道具も近代とほぼ同じになっていたと考えられています。この時代の伝説として神明内の浄誓寺に天慶の乱(940)で敗れた平将門の首塚(市指定文化財史跡)があります。

 奈良・平安時代になると、平将門伝説が木立、神明内、平須賀などに残されており、中央との交通も開けてきたと考えられます。
<鎌倉時代〜室町時代>
 鎌倉・室町時代(約800年〜400年前)においては、古河公方の家臣の一色氏の領地であった時期が長く、その陣屋があったことが『新編武蔵風土記稿』に記されており、陣屋稲荷と城山耕地という地名が現在の幸手駅周辺に語り継がれています。

 鎌倉時代から戦国時代にかけて奥州路の拠点、高野の渡を擁し、鎌 倉街道が通っていた幸手は軍事・交易上でも交通の要衝として栄え、源頼朝、義経、静御前、西行法師などが足跡を残しています。
 また、室町時代以降、この地は古河公方の家臣、一色氏の領地となり、現在の幸手駅周辺に陣屋が築かれていたと思われます。
 幸手の名称に関しては、慶長4年(1599)、当地にあてた手紙に「幸手領幸手町」とあり、約400年前には一般的に使われるようになったと考えられています。
<江戸時代>
 江戸時代(約400年〜130年前)の初めは、一色氏の領地と関宿藩領とがありましたが、その後大部分は天領となりました。ただし、下総国に属した関宿向河岸と槙野地は長く関宿藩領でした。
 また、伊奈備前守親子三代による利根川の付替え工事等が行われ、江戸川・権現堂川・葛西用水等が整備されて多くの新田が開かれ、農業も盛んになりました。そして、これらの河川を利用した水運により、江戸周辺上流域を結ぶ流通の要地として権現堂河岸が栄え、さらに日光社参や参勤交代のための街道整備により日光御成 道と日光道中が合流し筑波道が分岐する地点の宿場町として繁栄し、現在の市街地の基盤が形成されたのです。

 江戸時代になると幸手は交通の要地として今に続く繁栄の礎を築くことになります。まず、五街道のひとつ日光道中と徳川将軍家が日光参詣に使った御成道が合流し、さらに筑波道が分岐する宿場町と して栄えました。そして街道が整備され参勤交代や交易の往来が盛んになるにつれて、現在の市街地につながる基礎が形作られてきました。
 またこの時代、治水に通じていた伊奈氏の手で利根川の付け替え工事が行われ、権現堂川、江戸川を中心とした舟運が隆盛を迎 え、新田開発の進展もともなって、権現堂河岸、関宿向河岸は回船問屋が立ち並ぶ繁栄を示すことになります。
<明治維新後〜現在>
 明治維新の後、下総知県事、葛飾県、埼玉県へと所属の返遷があり、同22年に町村制が施行され、幸手町が生まれました。
 第2次世界大戦後、昭和29年・同30年および31年の行幸村・上高野村・吉田村・権現堂川村・八代村や桜田村と豊岡村の一部との合併分離を経て、同61年に市制を施行し、平成8年に市制10周年を迎え、現在に至っています。

 明治になると、22年(1889)に町制がしかれ、その後何度かの合併、編入、分離を経て、昭和31年(1956)に幸手町が誕生。昭和61年(1986)には市制を施行、現在の幸手市となっています。
▼幸手市の文化財など
神宮寺

神宮寺

 奥州征伐の際に当地で鷹狩りをした源頼朝が、戦勝を祈願して開基した寺。春日賢門作の阿弥陀如来や十二神将があります。

マリア地蔵

マリア地蔵

 文政3年(1820)に立てられた地蔵で、「イメス智言」の文字や十字架、抱えている赤子などから隠れキリシタンの信仰を集めていたものと考えられています。 (市指定文化財)

幸手義賑窮餓之碑

幸手義賑窮餓之碑

 天明3年(1783)の浅間山大噴火による大飢饉に際し、米や金を出して幸手の民を救った21名の義人を讃えています。 (県指定文化財)

橘守部の書簡

橘守部の書簡

 江戸時代に幸手の教育に大きな足跡を残した国学者、橘守部の書簡。(市指定文化財)

順礼の碑

順礼の碑

 亨和2年(1802)、豪雨のための権現堂堤が決壊したときに、これを修復する工事中に自ら人柱になったという伝説をもとに、順礼親子を供養しています。 (市指定文化財)

聖福寺

聖福寺

 日光社参の祈りに将軍や勅使が休んだ将軍の間や勅使の間があり、左甚五郎作と伝わる彫刻や絵画も残されています。 (勅使門は市指定文化財)

将門の首塚

平将門の首塚

 浄誓寺の境内に天慶の乱(940年)に敗れてこの地で没した平将門の首が埋められていると伝わる塚があります。高さ約3mで、時の流れを感じさせる五輪塔が置かれています。 (市指定文化財)

権現堂堤修復絵馬

権現堂堤修復絵馬

 権現堂河岸の繁栄を背景に、明治28年に熊野神社に奉納された絵馬で、幸手の絵師鈴木国信の作。かつての土木技術や村の様子を知ることができる貴重な資料として、市指定文化財となっています。

広重の幸手宿の絵

広重の幸手宿の絵

 日光道中六番目の宿として栄えた幸手の宿。安藤広重が当時ののどかな旅姿と幸手宿を描いています。

大正時代の舟運と街道

大正時代の舟運と街道

 権現堂河岸の舟運と街道の陸運で栄えた幸手。並木道や帆船が行き交う大正時代の写真が当時のよすがを伝えています。

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